先日、私の勤務する施設(高齢者のための施設)に数年通われていた方がお亡くなりになったという連絡が入りました。
夏にコロナの感染者が増え始めたためにその方は利用を控えていたのですが、家族関係も良くない状況で自室に引きこもりがちになり、コロナとは全く別の理由で1か月ほどで天国へ召されてしまったのです。
この第7波という荒波をかいくぐって頑張ってきたのに…
そしてご家族から一報を連絡を受けたとき、聞かれたことがありました。
「おばあちゃんの写真、ありませんか?」
聞けば遺影として使う写真がまったくないとのこと。
あれ?そうなの?
いろいろな行事やイベント事で、写真は撮ってきたんだけどな。
その方は撮られ慣れていて、決めポーズ!もあり撮ってはお渡ししていたのですが、それらはどこにいってしまったのか…?
どこかにしまい込んでしまったのか、捨ててしまったのか…
ご家族はすぐにでも写真が必要なんです、ということでみんなで慌てて探し、幸い過去のデータがUSBに残っていたのでどうにか写真をお渡しすることができました。
けっこうこういう事があるのです。
歳をとってくると、「写真を撮る」ということが減りがちなんだと思います。
介護を必要としている方は特に、ご家族にも写真を撮るなんて余裕がなかったり、家族仲が良くなければ余計です。
いまはコロナの時代になり外出自体が激減して、もはや誰とも会わなくなってしまったので「誰かと一緒に写真を撮る」ことは私たちでさえ、少なくなってきました。
なので、お誕生日会やいろいろな行事に撮る写真はなるべくいい瞬間を!!とカメラを手にまわりながら撮りまくることもあります。
そして良く撮れた写真はお渡しする。
私はなんというか、シャッターチャンスがずれてしまうことが多いのでお世辞にも上手いとはいえないカメラマンなのですが、職員のなかでも上手いひとは本当に上手い。
笑った瞬間を逃さない。
認知症になったり耳が聴こえにくくなると反応が乏しくなってきて、その一瞬というコンマ何秒みたいな瞬間を捉えるのってなかなか難しいこともあるのですが、心得ているひとはそれを捉えることができるんです。
撮られる方も入れ歯がないの気にしないくらい大口開けて笑うとか、もういろんな意味ですごくいい瞬間がある。(例えが微妙ですけども)
カメラは特段いいわけじゃなく、ごく普通のカンタンデジカメです。
すごいなあ~!いや、もう本当に感心します。うらやましいと思ってしまう。
そんななかで、私がこの職員撮るの上手いな!と思ったひとは過去に二人おりました。
二人ともカメラに長けているわけではないけど、上手い。
これってなんなんだろう?と思いながら観察をしていたのですが、わかったことがひとつ、ありました。
撮る側の人柄に愛があるということです。
愛をもってカメラを携え、撮られる側もそれをキャッチしているんじゃないかって。
それは撮るときだけのことではないのです。普段からそうなんです。
撮る側も、撮られる側もいい時間があって、いい瞬間がある。
例えば、家族仲が悪いけど写真とる都合があって、仕方なく撮るのっていい顏できるかな?と。
だから、技術うんぬんというのも確かに大事で必要なことなんだけど、それは対象のモノを撮るんじゃないってこと。愛をもって生きている人間のこころまで撮りに行くってこと。
そしてたぶん二人はそんなことは意識してないのです。愛なんてむずがゆいことは気にしてない。けど、無意識にやってのけている。
なんか、そこなのかなって私は思いました。
いつまでも続くと思ってた日常が、もしかしたらそれが最後の写真になるかもしれない。
そんなことを考えながら、今週の敬老週間を過ごしておりました。
私の修業はまだまだつづく…
今日のときめきBGM
木綿のハンカチーフ / 太田裕美